田沼時代の「わいろの横行」について 田沼時代にわいろが横行したとよ

田沼時代の「わいろの横行」について 田沼時代にわいろが横行したとよく聞きます。そこで、質問があるのですが
・何のためのわいろだったのですか。商人からのわいろというと、キックバック的なイメージがあるのですが、そういうのもあったのですか。田沼は株仲間を奨励しており、株仲間に営業の独占権が認められていたわけですが、例えば酒の株仲間がすでに存在しているけど、自分も酒を売りたいから、わいろを渡したり既存の株仲間よりも多くの税を払うことで、独占権を奪えるなんてことはできるのですか。そういう意味ではない? また、運上・冥加の税の取り方はよくわからないのですが、そういった税とは別にわいろがわたされるのですか。
・それとも、田沼時代に株仲間、俵物の販売など長崎貿易の拡大、南鐐二朱銀の発行、蝦夷地の開拓など色々やってますが、そういうことをしてほしいという政治献金的な要素だったのでしょうか。
・庶民の不満につながったのは、田沼の政策が物価上昇につながったからですか。今で言うと規制緩和をしたことにより景気は回復したが、そのせいで派遣労働者が増えワーキングプアが生まれたことに対する自民党への不満のようなものですか。(たとえがまずかったらすみません。他に思いつかず・・・)
不動産の売却は「不動産の窓口」

賄賂政治をしたとして非常に悪名高い田沼意次。 もっとも、それは戦前の考え方で、戦後は次第に幕府では珍しい経済通の人物として評価が高まっています。
商業に課税するというのは簡単なようですが、このような条件を満たす税制を開発できなければ、実効性を期待することはできません。ここで忘れてならないことは、この時代にはまだ商業簿記の技術は開発されていなかった、ということです。商人は、いわゆる大福帳なるもので、その取引の管理をしていましたが、それでは、なかなか年単位の収支の全貌を明確に把握することは難しいでしょう。そこで導入されたのが、様々な登記、登録に対して、担税力の存在を認め、登録免許税を徴収するという手法です。この登録免許税を、当時は「冥加金(みょうがきん)」と呼んでいました。また、この登記、登録の期間を一定に限り、その更新に対しても課税しました。これを、運上(うんじょう)といいます。
田沼時代の幕府では、放置しておいても結成される株仲間を、幕府として積極的に公認する代わりに、公認料として「冥加金」を徴収するという方式を導入しました。公認を得るには、問屋や仲買は、仲間の判形帳(はんぎょうちょう)を幕府に差しだし、冥加金を納める必要があります。こうして、幕府としては、商工業者の実態を把握することで、商工業政策の基礎が得られると同時に、財政収入の確保が可能になるという、一挙両得の方策でした。また、結成後は、運上を徴収することで、継続的な財政基盤としました。
蝦夷地の開発など:武士にとってはそれは面倒なので、徐々に、商いそのものを商人に請け負わせるという形態に変化しました。商人は、場所で、単に交易を行うだけではなく、漁業経営を行うようになってきました。この商人を場所請負人、請負金のことを運上金、場所経営の拠点のことを運上所と称しました。商人たちは、アイヌ人を交易相手から漁場の下層労務者へと転落させ、酷使、収奪しました。
民衆(庶民の不満? よりも大名たちの不満が大きかったのじゃないでしょうか)の不満:田沼意次(~1788年)の重商主義は伝統的な武士の価値観では「武士にあるまじき行為」であり、貨幣経済について行けない人たちの不満です。それと彼にとって不運だったのは天候不順でした。これは世界的規模の冷害で、当時、イギリスのテムズ川は凍ってしまったそうです。天明の大飢饉が起こりました、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉です。1786年に、全国の不動産に対して時限的に固定資産税を課し、それからの収入を大名に対する金融の原資に使おうというものです。具体的には、百姓には持ち高百石について銀25匁を、町人に対しては家の間口一間について銀3匁を、それぞれ5年間御用金として出金するように、との触れを出したのです。全国の大名たちは猛反対しました。結局、この触れの出された3日後に、田沼意次は老中を解任されることになります。
田沼意次の賄賂説は政敵たちによって、意図的に創作されたものだったようです。仮に、世にいわれるほどの賄賂を受けているのであれば、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがありそうですが、そのようなものは意次にはありません。また、使わずにため込んでいたのであれば、その後、失脚した際に、巨万の財産が没収されたというような話が出なければおかしいですが、それもありません。
また、それほど膨大な賄賂は、当然送り手の側にとってもかなりの負担となります。この頃になれば、どこの大名でもきちんとした財政に関する帳簿を付けるようになっています。そういう帳簿はもちろん外部に公表する性質のものではありませんから、莫大な賄賂を送ったりしていれば、当然、そうした財政帳簿の中に、その事実が記載されていなければおかしいのです。そうでなければ、その藩の会計責任者が横領したと思われてしまうからです。ところが、そうした記録は皆無です。
それどころか、逆の内容の記録は見つかっています。仙台の伊達家文書には、こんな話があります。当時の藩主伊達重村は、自家と同格と信じている薩摩の島津家の当主が既に中将に昇進していたのに、自分が少将であることから、昇格運動に乗り出します。伊達家では、その実現手段として賄賂戦術を考え、その目標として、老中筆頭であり、かつ勝手掛であった松平武元、大奥取締の老女高岳および側用人田沼意次の3人を選び、面会を申し込みます。そうすると、松平武元は、目立たないように供の数も減らしてくるように、と指示して会った上で、その挨拶にはなはだ満足した、ということになっています。老女高岳に至っては、伊達家から家を一軒建てて貰っています。これに対して、田沼意次は「ご丁寧のこと、わざわざ御出にもおよばず」と面会することさえも断っているというのです。